Million Notes

刀ミュ・歌・演劇の話をしまっておくところ

【感想】村正派双騎・万の華うつす鏡 -もう思い残すことないです-

 

この双騎を見ることができた2023年を忘れません。

とんでもない作品でした。

 

 

 

はじめに


ええと。

なんだ。

この7年、ゲーム&実物刀剣&ミュの村正派(千子派)を追いかけてきた身としては、それはもう、それはもう、なんかもう色々と大変なことになってるんですが。
その話始めると一瞬で大騒ぎカーニバルが始まってしまうので、一旦その人格は戸棚にしまっておいて(笑)

 

まずはネタバレのない全体の話。
既にたくさん言われていることではありますが、主演&演出のお二人による「美術館のような作品」というコメントは、見事な形容だと思いました。
エンターテインメントとしての演劇から、表現芸術としての演劇に大きく寄せている感じ。

 

『東京心覚』の時にもほとんど同じようなことを書きましたが(笑
あちらが現代・不条理演劇の要素をガンガン取り入れていたのに対して、こちらはよりインスタレーション・パフォーマンスアート色の強い作品だったように感じます。

(ミュージカル、奉納演舞、古典芸能、アリーナライブ、現代演劇、ラジオドラマ、野外フェスからのこれ、本当になんでもやるなこの本丸!!)


もうねえ、劇場で見るのが楽しみで、楽しみで、楽しみでなりません。
ステアラという円≒村正派の内部世界に飛び込んで、闇と光が入り乱れる中、

「どうかこの一瞬を切り取って額に入れさせてくれ!!」

と思うような画が千変万化していくのを見つめるっていう…。ずっと応援してきたカンパニーとキャストさんが繰り広げる体感型万華鏡、こんな贅沢な話があるかという…。


そして、これはちょっと横道にそれる話なんですけどね。
私は戯曲『つはものどもがゆめのあと』の巻末対談で三日月役のまりおくんが語ってくれた「刀ミュで演劇の賞を取りたい」という野望を、とても嬉しく思っていたんです。
もちろん近々の話とは言わないですよ。ただ舞台芸術の高い山を着実に登って、いつかは色んな枠を飛び越えて「演劇の発展に貢献した」という評価を受けるくらいのカンパニーになってくれたら…という夢をひっそり持っていたんですね。
その意味でも、
・演者としてスキルが高く
・役に対する深い理解があり
・ご自分の中に豊かな美学がある
お二方が先陣きって、かつてなく繊細で文学性の強い作品を創り上げて下さったこと、ありがてぇ………………と拝むような気持ちでした。

もちろんこれ、芸術だから素晴らしいとかエンタメじゃ駄目だとかそういう話じゃないですよ!!楽しさや情熱にガン振りのライブもできるし、抽象性の高い観念的な作品もできる。状況やキャストさんに合った攻め方でカンパニーの輪が広がっていくの熱いっすね!!!という話。

 

とはいえ!!
とはいえです!!笑

 

じゃあ今回の双騎はストーリーで見るお話じゃないの?
なんかゲージュツテキなオシャレ画面並べて「分からなくてもいいんですよー自分の感じたものを大事にしてくださいネー☆」って放り出される訳わかんないやつ?
かと言われると いや いや、ちょっと待ってくれ!!

 

村正派のストーリーとして見ても、非常に流れの美しい、すんごい話だったと思う!!!!!

 

ということを全力で語りたくて書いてるのが今この記事になります(笑
もういい加減抑えきれなくなってきた。

 

 

本編について


というわけで、ここから『流れ』を追う形で双騎について感じたことを喋ってこうと思います。便宜上、シーンに勝手な名前を付けていますがご容赦下さい…。
毎度のことながら個別のモチーフ等について思いっきり熱入れて語ってしまってるので、全文読むと疲れると思います!笑
場面ごとのキーワードを赤字で拾って箇条書きにしてるので、良い感じに飛ばし飛ばし拾い読みして頂けたら…。

 

そしてとてもとても大事なことなので大文字で書きますが、私もこれが答えだ!この舞台の真意だ!なんて思ってないです。

今回は特に、普段にも増して余白の多い構成で「見た人がそれぞれに感じ、解釈してほしい」って繰り返し念押しされてますしね。

この記事ぜんぶ、あくまで私の受け取った物語ということでよろしくお願いします。

 

で!

最初にこの記事全体のネタを明かしてしまうと、村正派双騎、大枠としては

 

妖刀伝説以前→伝説の発生→展開→ミュージカル刀剣乱舞という現在と未来

 

の流れを軸に置いて、各々の視点を以て語る彼らの物語だと感じました。
一応具体的な年号も添えてありますが、そっちを細かくやると作品の感想文ではなくなってしまうので(笑)あくまで代表的なものを挙げた目安と思って頂けるとありがたいです。

そしてちょっと今生活上の時間的余裕がなく、歌合記事のように出典を全部出していたら貴重な公演期間がどんどん過ぎてしまうので、著作権が切れている史料については当座手元のメモから出させてくださいごめんなさい…。極力早く追記します。

 

という訳で、いざ本編!

 

 

ー窓の場ー

光る〇と▢の中で村正と蜻蛉切が語らう、全体のプロローグ的な場。
お互いが「自分は窓の中・相手は窓の外にいる」と認識していることで、どうやらこれは物理的に向き合って行われている会話ではなく、抽象的な次元での対話であるらしいと分かります。
また今回のストーリーには、仏教・禅の要素が関わる様子。

●冒頭で印象的に表れる○と□の窓。
曹洞宗の禅寺である京都・源光庵の「悟りの窓・迷いの窓」をモチーフにしていると思われます。
○は仏の悟りを表す窓、□は四苦八苦に悩まされる人間の窓
四苦八苦、刀ミュでは『歌合 乱舞狂乱』で履修しましたね!
生老病死の四苦に加えて愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦の四苦。

五蘊盛苦
この身に宿る苦しみ 痛み 悩み
なぜ我を生み出した…

『歌合 乱舞狂乱』より『八つの炎 八つの苦悩』

肉体を得ることで、刀剣男士もまた四苦八苦を負うことになるとして描かれてきている。
今回は彼らのソレを描いている作品なのではないか、ということも分か……分かっ………つらい……。

 

●冒頭の音楽、意表を突かれて面白かったです。
まず最初は細い糸を思わせるような、ミニマルミュージックめいた単音の連続から入っていきましたよね。
同じ単音でも伊達双騎の、筆がすらすら走るような柔らかい弦の音とは全然違っていました。
クラシック舞踊の形式を脱したコンテンポラリーダンスとも、執着や思考を削ぎ落して悟りを追求する禅とも相性がいい。
ただこれ、「音1つもらえれば、そこから俺達の声だけでミュージカルやっていきますんで!」が出来る人たちにしか許されないやつや…!!って震えあがりもしました(笑
 
「ワタシとアナタは違いマス。 違う者同士が同じものを見ることなど、本来ありえないのかもしれません」
この話あとでもう1回引っ張り出してきますが、この時点では『葵咲本紀』の彼らを思い出してウッて……。
蜻蛉さんは村正が信康に抱いてた情愛の深さを知らなかったし、村正は蜻蛉さんが秀康への攻撃を躊躇ってしまった葛藤に気づけなかった。
縁者であろうともアナタとワタシは別の存在であり、違う目で物事を見ている。

それはこの劇を見ている観客もそう。当然で、大切な観念の提示だと思いました。 

 

●窓を「壁の欠けた部分」と表現するの!!好きでした!!
蜻蛉さんは「いささかひねくれた考えのように聞こえるが…」って言いますが、「欠けた部分があるからこそ人は外を見られる、外界と繋がれる」と取ると、欠けていることもその者の一部として大切にとらえる刀ミュの精神にしっかり乗ってるなと思うんです。

 

蜻蛉切が立ち去った後、村正の歌う声で場面は物語へといざなわれていきます。

鮮やかな赤は
時がたてば 暗く黒くくすむ
夜の始まりは 血の痕に似ている

つれえ…!!!!!!!!
悟りの窓・迷いの窓がある源光庵には、徳川の武将・鳥居元忠とその軍勢が討ち死にした際の血痕が残る「血天井」もあるとのこと。
刀ミュ世界においては、物吉くんが指揮をとって凄絶な伏見城籠城戦を再現したことが『青江単騎』で語られましたね…。
葵咲でその件への怒りを隠せなかった村正や、妖刀伝説の幕開けが家康死没≒太陽(東照大権現)の沈んだ後≒江戸初期とともに訪れることなんかが連想されて つれえ!!!!! って……。
 
●薔薇窓のような万華鏡の前にたたずむ村正を見つめ、蜻蛉さんは

夢とうつつのはざまを

俺は覗き込んだ

と内側へ踏み込んでいきます。
ここで映る体のパーツの映像からは、仏教における六根「眼耳鼻舌身意」を連想しました。

五蘊盛苦に通じる要素であり、

肉体を得ることによって
生まれた矛盾という蕾
感情という花を咲かせる

『阿津賀志山異聞』より『矛盾という名の蕾』

肉体=認識する器官を得てしまったことで迷いが生じる刀剣男士、刀ミュが一作目から取り組んできたテーマですね…。
 


─森の場─

村正と蜻蛉切は、柱のような、乾いて傾いた巨木のようなものが立つ『森』を訪れます。
蛍火のような、魂のような、柔らかく光る球体が村正の回りに集まってきますが……。
(このパートちょっと長いですごめんなさい!)

●ここのねーーーーー光る珠に囲まれて柔らかく微笑む村正が、今回いちばん「この画を見せて下さってありがとうございます」って思ったところでした…!!!
刀工・千子村正の名前の由来には、「母親が桑名・走井山の千手観音に祈願して生まれた子なので”千子”を名乗った」って説があります。(今も走井には刀工村正の屋敷跡の看板が立ってます)
数多の腕を持つ千子観音のすがたは、あらゆる衆生を救おうとする慈悲の姿を現しているとのこと。
また、刀工村正は日蓮宗に帰依していたと言われ、日蓮上人の命日に「妙法村正」という美しい刀を打っています。
彼が活躍した桑名周辺では、桑名宗社、熱田神宮、星川神社、多度大社、神館神社、立坂神社、さまざまな社に村正が奉納されています。

 

初代村正の、最古の作刀年紀は1501年
妖刀伝説なんて、まだこの世にかけらも存在しないころ。
ただあるがままに人々の営みを見つめていただろう聖性めいたもの、祈りの刀としての村正を見られたようで胸がいっぱいでした……。

 

●音楽も!!この時点でずるい!!!泣

ぽん ぽん 聞こえてくる
花の咲く音 ひらくおと…

『つはものどもがゆめのあと』で三日月が蓮を歌った『この花のように』を村正が…!!
千手観音を象徴するアイテム(三昧耶形)は蓮の華
日蓮宗で重んじられるお経は妙法蓮華経。村正が真剣必殺で唱える「サッダルマ・プンダリカ・スートラ」も、意味は「妙法蓮華経」ですね。

村正の花は何かと言われたら、私は迷わず「」と答えます。
蜻蛉切の槍身にも、が彫刻されていますね。


三日月の曲ではあるけれども、安らいだ表情で「蓮の開く音に耳を傾ける村正」は、なんかもう、なんかもう、良すぎる。 
そこへ追い討ちのように「頬に当たる風はそよそよ…」って『かざぐるま』が流れてきたかと思ったら、

でも突然吹き抜ける風に
逆らうことはかなわない

 

無常の風は時を選ばず、…デスか

村正の誕生した文亀年間の時点で、時代はすでに戦国。

東海でも畿内でも、戦が繰り返されては命が散っていきます。
瞬きながら消えていく光の中で……

 

●村正は慈しむように持っていた珠を、体を震わせながらフッと吹き消します。
ここ!!辛かった…!!!
抽象的な表現なので広い意味を含んでいると取っていいし、ミュに出てる関係者で言うなら一番近いのは信康さんだと思うんですが!
私が最初に連想したのは松平清康(家康の祖父)の命だったんです。
 
1535年、松平清康、家臣により暗殺。
『徳川家を祟る妖刀村正』伝説はそのほとんどが後の創作と思われるものですが、清康殺害に関してはちょっと特殊なんですね。
三河物語』『松平記』という江戸初期成立の史料に「千子の刀」「村正」が使われたと書かれてるんです。
特に三河物語を記した大久保彦左衛門は、家康の直接の家臣。
家康と同時代を生きた人物が、既に「家康の祖父殺害の凶器は千子(村正)の刀だ」と記している

弥七郎、千子の刀にて、清康、何心も無して御座有処を、ひん抜いて切殺申。

三河物語

阿部弥七郎寝耳に是をきき、すはや父を御成敗と驚さわぎ、村正の二尺七寸の刀を抜うちに、御後より清康様を切申。

『松平記』

「村正は徳川家に仇なす刀だから捨てろと家康が命じた」という逸話自体は、明確に虚構です。

家康の遺品として尾張徳川家に伝わった村正が、現在も徳川美術館に残っています。
しかし上記の史料時点では、後世で誇張されたようなセンセーショナルな話は記されていません。「村正で斬られた。」以上。

だからこそ生々しいというか、徳川の不幸にまつわる伝説の中で唯一「もしかしたら本当に村正が斬ったのかも」を否定しきれない話だととらえてるんです。
また仮に事実でなかったとしても、後々好き放題に尾鰭を付けられていく伝説の大本は、このたった数文字の記述かもしれない……とも。
 
長々書いちゃいましたけど、村正が
「散るのはどんな音 枯れるのはどんな音でショウ」
と体をこわばらせて光を吹き消したあの瞬間が、詩的に表現するなら妖刀村正伝説の種がこの世に落ちた瞬間のように見えて「やめてーーーーーー!!」ってなってました…。

 

●そうして体を軋ませながら静止する村正。
その鮮やかな血の色姿を蜻蛉さんは、毒々しくも美しい、妖しくも麗しい彼岸花に例えます。
まさに彼岸花に変生するような、禍々しくも見える赤いライトとの取り合わせがまたすごくて…。
ぞろり、ぞろりと腕を引き連れて歩く姿は、能の小面が般若に変わったような、天女形鬼子母神が鬼女の姿を見せたかのような、強烈な場でした。
(誰を斬ったかという具体的な内容はさておき)あれほど優しく柔らかな姿をしていた村正が、「血」の気配で存在ごと変化してしまう様をこんな風に表現できるなんて!!と鳥肌が止まらなかったです。


これは余談。
森の場の冒頭、「重ねた年輪」って言うからにはそれなりの太さをそなえた大木を歌ってると思うんですけどね。

ミュージカル刀剣乱舞の中で、まさに大木が題材になった歌があったじゃないですか。

狙われた大木
冬の前に根元刈られ
伸ばしてきた枝で
枯れてゆく葉

『結びの響、始まりの音』より『倒れる終焉』

「大樹」は征夷大将軍(転じて幕府)の別名なので、この大木は徳川幕府の滅亡を象徴的に表してるんじゃなかろうかという話を、むすはじ当時にしてたんですが。
松平一族が葬られている菩提寺もまた、奇しくも大樹寺で……重ねた年輪≒大木≒徳川とも読めてしまうんですよね……。
ただ、そこに対して村正が「美しすぎて触れられない」って言うのはなんか色々と辛すぎるので!!
年輪については”年月を経て重なる円→生命力の象徴→松平家の彼らを含む、世の中で育まれてきた命全般”と取ることにしたいです。斜めに切られた形が竹にも見えるのも気づかなかったことにしたい…。

 

 

─糸の場─

村正の変生を目の当たりにした蜻蛉切は、長く伸びる数多の糸に取り巻かれながら独白します。

「蜻蛉さんと糸」で最初に思い出したのは、真剣乱舞祭2022の大阪・宮城公演ソロ曲『Blackout』でした。
”魔王”って呼ばれてたあれですね(笑
村正のソロをカバーした蜻蛉さんは荒々しくも妖しい異様な気配を纏っていて、何かに引っ張られるようによろけたり、腕を吊り上げられたり、振り払おうとするような仕草を何度も見せていました。
会場には糸のように細いレーザー光が大量に走り、蜻蛉さんが膝をつく場面では束になって彼に降り注ぎます。

さすがにあの時点で、双騎の細かい話まで詰めていたとは思っていないんですけどね…。
一方で「村正の属性を帯びた蜻蛉切と糸(?)」の画があの形で出ていたことには、遡及的にゾワッッッとするものがありました。
村正の闇(Blackout)・蜻蛉切の真愛(Real love)を組み替えたら……の姿として、あれはやばすぎる。

 

●「張られた糸 絡みつく糸 鎖 足枷
ほどけぬ糸 纏わりつく糸 鎖 ならば…」
この曲も上手い…。
今にも「断ち切ってくれる」と続きそうな気迫で眼光鋭く睨み据えるのに、なぜか蜻蛉さんは石突で空を切っただけで、槍を振るおうとはしません。
なぜ?と疑問に思ったタイミングで…

 


─衣の場─

二つに分かれた糸の画面から村正が現れ、己の逸話、伝説を歌う。

●ここが2つ目の「やめてーーーーー!!」の山場でした……。

ワタシを織りなす糸 歪んだ噂 逸話 伝説
huhuhuhu…

連なる糸 呪いとなり ワタシを覆う 覆いつくす


断ち切れぬのならば脱ぎまショウ
すべて脱ぎ捨てて
一糸纏わぬ姿へ…

 

浅井先生の!!詩心が!!鬼!!!!
妖刀伝説という糸が織り上げられて、実力ある名刀のはずの刀身を幾重にも覆い隠してしまう。
画面上に舞うのは純白の布でしたが、頭の中では血で重く湿った「濡れ衣」のイメージがダブって展開してました…。

呪いの糸は、”恐るべき切れ味を誇る”村正にも、”触れれば斬れる”蜻蛉切にも断ち切ることはできない。だって目に見えない、形がないから。
冒頭の単音とは対照的に、装飾的な三拍子で高らかに歌い上げる村正の存在が「妖しい魅力を放つ妖刀」に変じていく …のを音楽と!歌詞で!同時に突っ込んでこないでほしい泣くから!!

まだ一糸をも纏わぬ姿のころの穏やかな姿(仮)に胸打たれたばかりの身には、温度差が効きすぎました…。


●そしてさらなる追い討ち、みほとせより『可惜夜(あたらよ)の雲』のアレンジ。
「麗しい月も、自分が見上げれば雲に隠れてしまう。ワタシに訪れるのはいつも常闇」と歌っていたのと同じメロディで流れてくるのが

わかっていマス 脱ぐことはたやすくはない
見えぬ鎧は いつしか皮膚となり
ワタシの一部に なった…

皮膚。
自分の一部、引き剝がせない、脱ぎようのないもの。
「勝手に着せられただけの呪いじみた伝説も、いつしか”村正”の一部になった」と歌う声がもう……胸の痛くなるような色でした…………。
蜻蛉さんが、「俺は村正だ」とは言うけれど一度も「お前は妖刀などではない」と否定したことがないのも、先ほどの場で糸を斬らなかったのも、伝説もまた村正の一部であることによるものか、みたいな発想とリンクしたりして、なんかもう、ちょっとこのへんで一回休憩入れていいですか。

 

 

(息継ぎ)

 

(ほんとむり)

 

 

刀が人を呪うなんて物語は、もちろん言うまでもなく虚構。
しかし一方で妖刀伝説自体にも、既に数百年の歴史が刻まれています

 

1645~48年以降の成立とされる『三河風土記』には、「清康(祖父)・広忠(父)・家康を傷つけた村正の刀鎗は不吉なので、徳川に味方するものは持つべきではない」と、直政・忠勝の目の前で折られた村正作の槍が登場します。*1

村正作ハ御三代不吉ノ刀鎗ナリ 家康公ヘ荷擔ノ者ハ村正カ作ノ者不可用トテ井伊本多カ目前ニテ彼鎗ヲ微塵ニ打折ケリ
去レハ村正ハ御三代迄不慮ノ災有シ故 関ケ原軍以後御家人ハ不及申其陪臣ニ至ル迄禁シケル故上作トハ云なから自然ト廃ケルトカヤ

三河風土記

 

1701年水戸光圀没後の言行録『桃源遺事』は、徳川を倒そうとする真田信繁(いわゆる幸村)が村正を持っていた話を紹介しています。

眞田佐衛門佐信仍は、東照君へ御敵対仕候はじめより、千手村正の大小を、常に身をはなさず指候よし、其故は村正の道具は、當家へたゝり候と申説を、信仍聞候て、當家調伏の心にての事なり(”千手”なのは原文ママ

『桃源遺事』

 

そうして1800年代半ばに入ると、徳川家の公的な史書である『東照宮御実紀』附録に「徳川を祟り、所持を禁じられた村正」が記載されます。

此度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、(中略)いかにして此作の當家にさゝはる事かな、此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付られしとぞ

東照宮御実紀附録』

悲しい歴史であっても、その次に我らがいる。どこかで聞いた話ですね。

 

彼が「自分と妖刀伝説が不可分であること」に哀しみを抱えているの自体は、予想できた話ではありました。

村正の「脱ぐ」に「妖刀伝説からの脱却」が含まれているのでは、という話はそれこそ早い段階からファンの間で言われていましたし…
https://twitter.com/taka_koro/status/841317365887377412
(ひとさまのを引っ張ってくるのも気が引けるので、一例として自前のやつ。長いので今読まなくていいです!)
声優の諏訪部さんは、続花丸の際に村正の持ち味を『エキセントリックな言動と、その裏に秘めた深い悲哀。』と語っていました。
https://twitter.com/taka_koro/status/1160621603660582914

ある意味、今まで感じてきたことの答え合わせのような場面ではあるんですが。
それでもここまではっきりと自分の根幹にかかわる哀しみを歌う姿が……美しい、のが辛い………。

絵を見るときって、既に知っている場所や神話であっても、それを描く筆の運びや構図・陰翳にワーッと心打たれるじゃないですか。
そういう意味でも、とても美術的な場面であり作品だと感じました。

 

「徳川に仇なす刀か…。本当なのかな?」
「そう思っている人が多いのは事実デス。村正と言えば妖刀! 一度持たれた印象はそうそう変わるものでは無いのデスよ」

みほとせの青江と村正の問答が、改めてヒリヒリ来ます。

 

 

─河の場─

滴の落ちる水音とともに蜻蛉切とすれ違い、光の届かない場所へ去っていく村正。
その場に残った蜻蛉切は、長い思索を巡らせます。

えんえんと、えんえんと。
ここで蜻蛉さんが繰り返す言葉が印象的でした。

しくしくくれくれ、

はたはたちょうちょう、

しんしん、きらきら、

たづたづ、けんけん。

シリーズ内ではさまざまな男士が、畳語(繰り返す言葉)を歌ってきています。
主にその男士を象徴する言葉が選ばれることが多いと思うのですが、今回に関しては、この双騎全体を表しているようだと感じました。

 

最初に大きく打ち出された『円』
同派の二振りが纏う『縁』
(そういえば二振は、ステアラの”円の周縁”でこの物語を演じてますね)
ずっと続いていく『延』であると同時に、『厭』の字を当てれば伝説に倦み疲れた村正の心みたい。
そして三日月の「しくしく」に同じく、「えんえん」と書くと泣き声にも見えますね。

(cf.脚本の浅井先生は、パライソ再演のパンフレットで「和語には多義的に取れる豊かさがある。例えば“しくしく くれくれ”は頻く頻くで繰り返しという意味があるけど、しくしく泣く声のようでもある」というお話をして下さっていました)

始まりと終わりと繋いで巡り巡る森羅万象の円運動は、巴さんが真剣乱舞祭で問うたマツリの形や、心覚で桑名くんが歌った循環にも似ていますが…

 

●蜻蛉さんに去来したのは「戦いを終わらせるための戦い」
血の河を作るほどに戦って、戦って、戦い続けた果ての「乱世の世であればこそ輝けた光は、戦いが終わればその光を失うのだろうか?」の問いは、しっかりと蜻蛉さんの極修行でしたよね。

(極修行 手紙3枚目)
本多忠勝は、家康公が天下を取った後その影が薄くなっていきます。
彼は戦乱の世であればこそ活躍の場がありましたが、
それを自分たちの手で終わらせてしまったと言えましょう。
それを見て自分の胸に去来したのは、
おそらく我々の辿る運命もそうであるという現実です。
歴史を捻じ曲げようとする敵との戦いが終われば、おそらく自分たちの出番はなくなり、
再び美術品に戻る運命が待ち受けていることでしょう。
ですが、自分はそれを忌むべきこととは思っておりません。
不遇な立場に置かれた忠勝がそれでも主君への忠誠を保ち続けたように、
自分もまた己の存在意義がなくなるその日のために、
主のために戦い続けましょう。

(刀剣乱舞ONLINE)

蜻蛉さんは、元主の運命*2と自分たちの運命を重ねていました。
令和の世の中においては、刀が刀として、槍が槍として、武器本来の”存在意義”を全うすることはまずないはず。
美術品級の歴史ある品であればなおのこと。

では、その輝きは失われてしまったのか。

いや 日の光の中でも星は輝いている
目を凝らしても見えないがしっかりと輝いている

自分がそれを忘れることはない 決して

将星綺羅星のごとく瞬いた戦国時代から、太陽としての家康が拓く泰平の時代へ。
村正は江戸時代の開幕とともに闇へ追いやられて行きましたが、蜻蛉切(忠勝)もまた光に溶けたのだ、って語る声に胸を衝かれました。

影を薄れさせても失われた訳ではないと語る蜻蛉さんの声の、握りしめるような強さがまた切なくて…。
手紙ではしっかり折り合いをつけた書きぶりで送ってくれた蜻蛉さんも、修行先ではこんな風に顔をゆがめて思いを巡らせてたんだろうか、みたいなところまで想像すると堪らなくなります。

再演天狼傳で蜂須賀が歌った「陽に沈んだ星の輪郭…」に対して、兼さんが返した「朝が来るのを怖がるな」を思い出してました。

 


「えんえんと思いは巡る 文字や歌や言葉となり 時代を超えて誰かに届く」

これまでのシリーズでは、基本的に『語り継ぎ、歌い継ぐ』は美しいこと・大切なこととして語られてきましたよね。
でもそこに糸の場→衣の場で「逸話や伝説、村正を苦しめる呪いもその一つだ」って観念が加わってヴーー……ってなるじゃないですか。
一方で、元主を範として「自分の存在意義をなくすための戦い」を受け容れるほどに強い、蜻蛉さんと本多忠勝を繋ぐ糸に切なくなりもする。

ぐるぐる、ぐるぐる、思考が巡ったところで、村正が「因と縁を纏う宿命」に触れながら現れます。

 


─妖の場─

村正、大立ち回り。

●村正派双騎の上演にあたって「あるかもしれないが、見るのが怖い」と思っていた、凄絶な場でした。
笑っているような、泣き叫んでいるような、言葉の断片を呟いているような数多の声の中で、村正が遡行軍を斬って、斬って、斬って、斬って、斬って斬って斬りまくります

その姿はどこか憑かれたような鬼気迫るもので(刀身に布が掛けられてからは特に…)斬っている自分が信じられないような表情にも見えます。

これもまた、村正の伝説のオマージュだと感じました。


1860年歌舞伎『八幡祭小望月賑(はちまんまつり よみやのにぎわい)』。
真面目な縮屋の青年・新助を妖刀村正が狂わせ、道行く人や愛した芸者を次々手に掛ける凶行に走らせます。

 

1888年歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』。
花魁に焦がれた男が起こす「吉原百人斬り」、その凶器である妖刀・籠釣瓶はやはり村正の作だと語られます。
(1815年時点で同じ佐野八橋事件を題材にした歌舞伎狂言杜若艶色紫』では、籠釣瓶は”備前国光の大業物”とされてました。「村正といえば妖刀、妖刀といえば村正」の変容が伺える作品です)

 

ここまでくるともう、徳川もなにも関係ありません。
村正の存在そのものが不吉で恐ろしい妖刀として世間に流布してしまった江戸後期~明治頃、妖刀村正伝説が行くところまで行きついた姿に見えました…。

 

●それと同時に、聞こえるのが村正の声であることも合わせて、あれは失われていく村正の悲鳴であるようにも聞こえました。
ここは敢えて簡潔に書きます。
不吉な刀としてのイメージが定着した村正は、折られる・捨てられるところまでが伝承に含まれることも多い。
そして現実においても「改竄された村正」の特集展示が行われるほどに、銘を消されたり、潰されたり、変えられてしまった村正が残っています。

(↑展示メモのツリー)

そこまでの手間を掛けず、単純に処分された村正があっただろうことも想像に難くありません。
物語は、現実の刀も壊します。

苦渋や動揺は見せても怯えた姿なんて見せたことの無かった蜻蛉さんが、恐怖と悲しみの入り混じったような表情で村正を見ている目が一番辛かったかもしれないです…。

 

●狂奔の嵐が去ったあと、なかば呆然とした様子の村正は声を震わせながら

「ワタシは千子村正。そう、妖刀とか言われている、あの村正デスよ」
「ワタシは千子村正。そう……妖刀とか言われている、あの村正デスよ……」

と繰り返します。
2017年1月31日、私達が出会った男士・千子村正の形が出来上がった……、と思いました。


●去っていく村正に、蜻蛉さんは語りかけます。

「いつか言っただろう。俺も村正だと」

口にするのはみほとせの台詞、バックに流れるのは葵咲本紀の『誰がために』。

 

これは村正ファミリーのサビなので、さんざん喋ったことの繰り返しをお許しいただきたいんですが…!!

蜻蛉切は”村正”か」は、実はとても微妙な問題なんですよね。

初の刀帳の蜻蛉さん自己紹介「村正作の槍」は、ぶっちゃけ誤りです。蜻蛉切を打ったのは藤原正真であり、村正ではない。*3

けれども正真は一説に村正の弟子と語られ、妖刀伝説の反証として徳川四天王本多忠勝酒井忠次も、蜻蛉切・猪切という村正一派の刀槍を使っていた」と引き合いに出されもする。村正の眷属としての物語を持っている。

上記の台詞は、そういうなんともつかない状況を

「俺も(概念としての/刀剣乱舞における刀派の)村正だ」

と取り得る表現にすることで”アリ”の範疇に捻じ込んだ、脚本家さんのアクロバット案件だったと思っているんですね。(大般若さんが『俺も”長船”でね』、丸さんが『私も”三条”だからねえ』と言うような塩梅の使い方を、しれっと援用するような…)

 

つまり「俺も村正だ」の名乗りは、『村正』の物語に参画しようとする蜻蛉さんの意志そのものであるように聞こえるんです。

線だ。

線を引いた。

(中略)

名前も線だ。

『東京心覚』の、水心子くんを思い出しました。

心覚では名前という線をもって概念を区切るという使い方をされていましたが、双騎のこの台詞では「そうか、名前という線で繋がることもできるんだ」と思いました。

2017年3月4日、蜻蛉さんが初演『三百年の子守唄』で引いた線です。

 


─繭の場─

二振は、闇の中に浮かぶ球体の中に立っています。
お互いの声は聞こえているが、姿は見えない様子。

●ここの蜻蛉さんの声がもう、…………なんかもうどんな言葉で表現するのも野暮というくらい、「あの蜻蛉さんからこんな声が出るんだ」っていう、囁くような静かで柔らかい声でしたね………

閉じこめられたのか

閉じこもったのか…

八方に伸びる蜘蛛の巣の檻に囚われているようでもあるし、繭に守られているようにも見える。

球体が三角で構成されているのは、仙厓の禅画・『〇△□』を思わせます。

idemitsu-museum.or.jp

形については元の禅画とあわせて色んな解釈が可能だと思いますが……

私はシンプルに「○と□の間を繋ぐ△」だと感じました。

 

●ここがどこかも分からない暗闇は、迷いが晴れず、救いを見出すことのできない『無明の闇』に当たるもののように見えました。

堂々と歌えば本丸の誰よりも巧みに力強く鳴る二振の声で、ぽつりぽつりと歌が交わされます。

分かち合う体温

分けあう役割

ともに背負う宿世

「分かち合う、背負うって具体的に何よ」という一見抽象的な話にも見えますが、具体的なエピソードは既に本編で重ねられてきていますよね。

 

『三百年の子守唄』で誰かが信康を斬らなければならないとなったとき、村正が先に立って覚悟を決めました。

それに対して、蜻蛉切さんも「俺も村正だ。一人で背負うことはない」と言い切って続きます。

『葵咲本紀』、蜻蛉さんが秀康を斬れなかったことを悔やむ場では、忠臣の物語を持つアナタにそんな覚悟は似合わないししてほしくないと、村正が役割を引き取ろうとします。

その村正が自分を捨てて逃げろと叫んだときには、蜻蛉さんは俺がお前を置いて逃げる?馬鹿馬鹿しい!!と一蹴しました。

 

全てを共有してる訳ではないけれど傍らに居て、欠けた部分が垣間見えるときには手を伸ばし合ってきている。

村正は葵咲本紀で既に、蜻蛉さんとの“厄介でしちめんどう”な絆を「ファミリー」であると歌っています。

ただ、“村正”の安らぎ、悲しみ、狂気、迷い、全部を晒してなお闇の中にまで糸を辿ってきて「怖くはない」と落ち着き払っている蜻蛉さんの在り方を見て、初めて宿世を共にできる相手であることを感得できたんじゃないかな……と感じました。

村正、その方設定文で貴方の唯一の理解者って呼ばれてるんだよ知ってましたか。

 

●「脱ぎまショウか」というおなじみの呼びかけに対して、蜻蛉さんは拒まずに「ああ」と答えます。

そして断ち切らなかった・断ち切れなかったはずの糸に向けて、一閃。


迷いを払って、糸を解き、脱する。
「解脱」の二字が浮かびました。

 

審神者にはおなじみの光・極修行帰還にも似た逆光が無明の闇に開く二つの眼のようにも見えた、双騎ならではの図だったと思います。

村正が千手観音なら、蜻蛉さんに刻まれた梵字地蔵菩薩(カ)・阿弥陀如来(キリーク/あるいはこちらも千手観音)・聖観音菩薩(サ)。地獄からの救済を担うみほとけ。

村正も蜻蛉さんも、どちらも光なんだよ……。

 


─月の場─

明けていく光の中をゆっくりと歩く二振は、最初の森にたどり着きます。
どこか寂れて静謐な雰囲気だった『森』には、色とりどりの花が咲き乱れていました。

●ここの歌声の溶け方が、もう、もう、もう、感無量でした………………。

「全く違った声」と仰ってたキャストさんお二人が、澄んだ美しい声を響き合わせて……。

以前にっかりさんの『菊花輪舞』『夕涼み 時津風』感想文で

「交わるとはどんな心地か知ることはできないと言うけど、声を得た彼は他者と交わる手段を既に持ってる。同じ歌で心を重ねて、響き合わせることができる

と書いたことがありましたが、まさにその響き。

生で聞いたらどんなことになってしまうんだろうとこわいです。こわい。

 

「散るひとひら ひとひら

これ!!!これも!!!!やられた!!!!!

いや、この話はこれまでにも増して、私が勝手に転がってる話なんですけどね!

『江水散花雪』で山姥切国広が歌ったこの歌詞は、儚く散る桜=端的に言えばの暗示だととらえていたんです。『花影ゆれる砥水』以降引用される「俺もそのひとひら」も、その路線を引き継いでいたと感じました。

 

でも仏教的な観念を下敷きにしている村正派双騎では、もう一つの意味も帯びて聞こえたんですね。

「仏・菩薩が現れると、天から花が降る」

いわゆる「散華」。

迷いと悟りを繰り返す彼らは仏そのものではないけれども、その修行の道が歩む先を祝福するような響きにも聞こえると思ったんです。

辿り着いた森でも、天井から下がる珠が花に見えてくる。

 

そしてそれにまつわる鳥肌立ったやつ。

釈尊が『妙法蓮華経(サッダルマ・プンダリカ・スートラ)を説くにあたって、瑞祥として降った花は何か。

曼殊沙華がそのひとつだと言われています。

仏説此経已。結跏趺坐。入於無量義処三昧。身心不動。是時天雨。

曼陀羅華。摩訶曼陀羅華。曼殊沙華。摩訶曼殊沙華而散仏上。

妙法蓮華経 序品第一』

曼殊沙華、言わずもがな、彼岸花の別名!!

根に毒を持つ不吉な花とされる彼岸花が、一方で天から降る美しい花と同じ名前を持ってるんですよ。*4*5

 

これもう、なんかもはや私のつたない言葉で表現するのもくるしい!!ってなるようなアレなんですが…!

冒頭の森の場(仮)で、『この花のように』の蓮を歌った村正が鮮血のような毒々しい彼岸花に変じるところに、妖刀伝説による変貌を重ねてギ…………ってなったじゃないですか。

そこからの「けれどその彼岸花もまた、尊い花である」の結末はさぁ……………………………!!!

浅井先生が意識して書いてらしたら圧倒的な愛情に泣いてしまうし、偶然だったらそんな奇遇が生まれていることに震えます。

いずれにしてもとんでもない。

 

●そしてね ごめんなさい もうひとつ もうひとつあるんです。

『可惜夜の雲』の話。

これも私が勝手に爆発してる話です、次の項まで飛ばしてもいいです!!

 

明けるのが惜しい程の

美しい夜

麗しい月

楽しむ間もなく

雲隠れ

訪れる常闇

 

空の鏡を隠す雲

可惜夜の雲

 

ワタシが見上げると

いつの時も

訪れるは 常闇

『三百年の子守唄』より『可惜夜の雲』

 

 

私はこの曲を、

源氏物語明石帖において「あたら夜の…」の一語で引用される和歌

「可惜夜の 月と花を 同じくは 心知れらむ 人に見せばや」

 ×

小倉百人一首にある紫式部の和歌

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」

のW本歌取りとして読んだことがあったんです。

直前に蜻蛉さんが語った伝説からの流れで、闇の中にある村正の孤独を歌った曲だと。

 

からの、今回のラスト。

雲一つかかっていない月を、花の咲き乱れる中で、蜻蛉さんと並んで見つめる姿で終わるじゃないですか……。

 

「心を分かち合える相手とともに、同じ月と花を見ている」

 

初演みほとせから6年越しに見られた画にウワアアアアアってなってるところで、長調にアレンジされた『可惜夜の雲』が流れて来るから、もう、もう、再びの「この画を見せて下さってありがとうございます」に号泣ですよ……。

 

そして波状攻撃で、冒頭の問いが頭の中に浮かんできます。

「私と貴方は違う。違う者同士が同じものを見ることなど、本来あり得ないのかもしれない」

そうですね、そうかもしれない。

「それでも隣で同じものを見たいと願う心はある。時にそれが闇の中から救い出してくれる」

胸いっぱいの結末でした…。

 

●上は過去公演や実物刀剣等に対する、私の個人的な思い入れをものすごく含む話です。

が、そういう情報を一切抜いて双騎の話だけで見ても、あの場面の

「雲の晴れた月を二振が見ているときの、『違う存在同士だけれど、この今だけは同じものを見ているのかもしれない』という感覚」

「そしてまた『ワタシは行きマス』『俺も行く』と別れ、各々の道を進んでいく村正と蜻蛉切

みたいな美しさは言葉なく表れていると思うんですね。

 

曇りのない月は「真如の月」とも言って、世の真理や、迷いの晴れた清らかな心の象徴でもあるそうです。

真実の姿を求める村正、戦いに対する己の在り方を固める蜻蛉切、彼らが修行から帰る日を楽しみに待とうと思います。

 

 

おわりに

ほんとに、とんでもない作品でした…。

 

大好きなキャラクター達を、こんなにも濃密な演劇作品に仕上げてもらうなんてことがあっていいんだろうか……って、まだ夢の中にいるような心地です。タイトルの通り、「わが刀ミュ村正派ファン人生に悔いなし」とまで思ってしまった。

そしてすみません、文章の中では「劇場で見る日が待ち遠しい」という旨の話をちょこちょこしているんですが、結局アップロードがぎりぎり間に合わず、このあとがきを書いている時点では12/9ソワレを観劇済です。

 

すごかった。

すごかった。

期待よりずっと、ずっとずっとすごかった。

 

ただ劇場で見る前の感覚を残しておきたかったので、記事内では観劇前に書いたままを残すことにしました。現地の話はまた改めて!

というかこれだけ書いたってまだまだ喋り足りないんですけど!!笑

それこそ延々と延々ときりなく続いてしまうので、結びに変えてあともうひとつだけ。

 

劇中で村正が2フレーズだけ歌う三日月ソロ『この花のように』原曲には、ちょっとした仕掛けがありました。

濁りに染まぬ蓮
清らかに咲き誇る
 
一度めぐれば
蓮に心寄せ
托されるは
生涯の約束

 

ぽん…

ぽん…

聞こえるか?

花の咲く音

開く音

『つはものどもがゆめのあと』より『この花のように』

ご覧の通り『一蓮托生』が隠れてるんですよね。*6

 

また、同じく蓮をテーマにした『華のうてなⅡ』では

半座分かつ 華のうてな

誰が為にそこにある

宿世分かつ為の

華のうてな

『つはものどもがゆめのあと』より『華のうてなⅡ』

とも歌われていました。(花のうてなの半座を分かつ=浄土にて同じ蓮の上に生まれ変わる、転じて運命を共にする意。誰がためになんて改めて問うのも野暮だってくらい、彼らのうてながお互いのためにありましたね…

宿世を分かつ一蓮托生、もうまさに今回の双騎で描かれたことそのもので、作品をまたいで引用されたことに対する納得感がすごい…という感じなんですが。

 

宿世ので繋がり、蓮のうてなの座を分かつ。

の物語だったなあ……

 

とストンと来た瞬間に、過去の公演と今作がぐるんと繋がって目の前がくらくら、ちかちかしました。

脚本も、お芝居も、諸々の演出も、本当に最初から最後まで彼らへの愛にあふれた物語だったと思います。

「あの美しい万華鏡が今日も回っている」という今だけの時間を、年末まで噛みしめて過ごそうと思います…。

 

 

ありがとうございました!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【引用】

ミュージカル『刀剣乱舞』 千子村正 蜻蛉切 双騎出陣 ~万の華うつす鏡~ | ミュージカル『刀剣乱舞』公式サイト

脚本・作詞:浅井さやか


『八つの炎 八つの苦悩』
作詞:浅井さやか 作曲・編曲:和田俊輔

『矛盾という名の蕾』
作詞:御笠ノ忠次・浅井さやか 作曲・編曲:和田俊輔

『倒れる終焉』
作詞:浅井さやか(One On One) 作曲:YOSHIZUMI

『可惜夜の雲』
作詞:浅井さやか(One On One) 作曲:YOSHIZUMI

『倒れる終焉』
作詞:浅井さやか(One On One) 作曲:YOSHIZUMI

『この花のように』
作詞:浅井さやか(One On One) 作曲:YOSHIZUMI

『華のうてなⅡ』
作詞:浅井さやか(One On One) 作曲:YOSHIZUMI

*1:ちょっと極端な妄想をすれば、蜻蛉さんの不自然な自称「村正作」は、この「村正作の槍」をひそかに取り込んでいるからだ!ジャジャーン!なんて話が出せるかとは思います。が、ゲーム始動時点でこの史料を参照している蓋然性が薄い&さすがに強引すぎるし美しくないので私の中では採用していません

*2:「いや、戦働きはなくなったにせよ街道の要衝・桑名を任されるのは決して不遇ではなく…!!」みたいな主張を始めるとキリがないので触れません!!笑

*3:村正一派の千子正真≠蜻蛉切の作者・藤原正真説を取れば、赤の他刃になってしまいます

*4:花暦!!!!!!!!!!!!!

*5:この”曼殊沙華”は架空の花ともいわれますが、文化上重ねて表現されることを重視して喋っています!!

*6:参考までに、次作であるむすはじの「”開”拓の先に ”陽”光さしこむ ”丸”い丸い水平線」に榎本武揚の軍艦・開陽丸から取った縦読みが仕込まれていることは、浅井先生ご本人がツイッターで言及されていました。https://twitter.com/sayachin_asai/status/1255855250885406720